2010年4月17日土曜日

友人との再会

今日は久しぶりに友人に会い、街の広場のオープンカフェで、わたしの研究テーマについて話をしました。彼はいまマンハイム大学の神学研究所の所長として働いており、週に2コマの授業を持っているとのことです。マンハイム大学には学部としての神学部はなく、ビルの一室に神学研究所があるそうです。
彼は、ケルト文化とキリスト教の出会いについて博士論文を書き、その後マンハイム大学に就職が決まったということです。ただ、その職場も期限があり、あと数年で次の仕事場を見つけなければならないということです。

彼はぜひ台湾の神学部で働きたい、いまその可能性を探っているそうです。それが実現したら、上海にいる共通のドイツ人の友人と一緒に、アジアで会おうと約束しました。

まあ、スコットランドの文化について研究して、そして今度は台湾で働きたいというのですから、世界はどんどんと縮まっている感じです。

彼と、わたしがいま取り組んでいる論文について話していた時、「知ってるか、今時の学生はインターネットのWikipediaの文章を、コピーして、それを適当につなぎ合わせて、レポートして出してくるんだ。何となく字数はそれなりにあるけれど、論旨がつながっていないので、まるわかりだよ。ホント信じられないよ」と嘆いていました。
ドイツの学生も、日本の学生も考えることは一緒で、教授たちも同じ悩みを抱えているみたいです。
これも世界が縮まったおかげでしょうか?

2010年4月16日金曜日

講演、そして神学生との会話

昨日は、ハイデルベルク大学のアジア−ヨーロッパ交流研究所主催の講演会「日本に来たグーテンベルク:イエズス会宣教プレス(1590−1620)」に行ってきました。日本にもたらされたヨーロッパの印刷技術、ある意味情報革新技術が日本における宣教、神学教育、そしてまた日本文化にどのような影響を与えたかという内容でした。とても興味深く、また様々なアジア人やドイツ人がこのような内容に非常に大きな興味を持ち、熱心に議論を交わす姿に接すると、とても刺激を受けます。また、自分自身が、日本人としてどれだけ日本のことを知っているのだろうと、反省させられます。

この講演の後、日本学を副専攻にしている神学生といろいろと話し合いました。

今日のドイツの教会の話、教会の衰退の話になったとき、「教会に人が来ないのは、残念なことだけれども、良い面もある」ということでした。つまり、昔はドイツも相互管理社会的な面があり、教会に来ないと近所の人から批判されたそうです。他の人からは、100年ぐらい前までは、日曜日に教会に来ないと警官が注意に来たという話を聞いたことがあります。また、地域の中では教会は出会いの場であり、若い人たちにとっては異性と出会う場であったそうです。15年ほど前にも、ある父親から、自分のこどもが幼児洗礼を受けていないので、地域で白い目で見られるという話も聞きました。そういう社会の中で成り立っている教会であったわけです。

現代は、そういう監視社会の縛りも、また閉鎖的な社会もなくなり、みんなが自由に自分の好きなものを、自分の価値観に基づいて選択することができる社会(マルチオプション社会)になったわけです。出会いの場も何も教会でなくても、様々な可能性が周りにあります。

そこで、いまこそ教会の真価が問われている。教会が人々から積極的に選ばれる場にならなければならないということです。

これは、日本でも同じことではないでしょうか。日本は、日曜日に出かけようとすると近所の人から「どちらにお出かけですか」と聞かれるような、教会に行くことを逆に監視されていた社会ですが、まだ、教会はアメリカやヨーロッパ文化の接点という市民権を持っていたように思います。それが、いまやそんなことは何の意味もありません。別に教会に過なくても、欧米文化に触れることはできますし、ハイデルベルクには毎日何十人もの日本人観光客がやってきています。

ただ、教会はこの不慣れな状況の中で、何をしていいのか分からないでいるような感じがします。その上、人々は教会の言葉だけが先行して、実感を持つことができない礼拝、身体性を失ってただ聞いて、頭で理解するだけの教会に魅力を感じなくなっているということです。言葉だけ、頭でっかちな教会は廃れていっています。

そこで、昨日のブログでも書いたスピリチュアリティーという言葉が人々の関心を引きつけています。教会もこのスピリチュアリティーというはやりの洋服を着て、時代についていこうとして傾向があるのではないかと思えるときがあります。

でも、教会が、またキリスト教が魅力的なはやりの服を着たマネキンであったとするならば、このマルチオプション社会の中では、服は買っても誰もマネキンを家に持って帰ろうとはしません。

このことは、日本が過去150年に経験したことではないでしょうか。ヨーロッパから来たキリスト教文化や習慣(クリスマス、結婚式、教育)という外側の洋服は魅力的であったので受け入れられましたが、中身はどうだったのでしょうか。

そんな話を、コーヒーを飲みながら2時間ばかりしていました。8時前に店を出て、その神学生は「図書館は10時まで開いているから、ちょっといって勉強してくる.講義に出席する準備をしなくちゃ」と自転車で街の中に消えていきました。

今週初めから春学期が始まり、急に街中が学生であふれています。

2010年4月14日水曜日

ドイツの本屋

わたしの感想ですが、ドイツ人はとても本好きだと思います。本好きということも言えますが、文字好きで、何でも文字(言葉)で表現しようとします。だからドイツの神学書はあんなにも分厚くて、字しか書いていません。ドイツの電気製品の説明書もほとんど字で、絵はあまり描かれていません。ある人曰く、ドイツ人は世の中のことはすべて文字で表現できると思っているということです。
それはともかく、町の至る所に本屋があります。少し大きな駅では本屋が充実しています。小さな町でも、図書館が充実しています。
それで、わたしの関心としては、神学書はどこで売っているかということです。このことに関して、ここ10年でドイツは大きな変化を迎えているような感じがします。
有名な神学部があるハイデルベルクには、大きなキリスト教書店がありました。図書館に行くのも楽しみでしたが、その本屋で新刊書を眺めるのも楽しみでした。その本屋がいまや無くなっているのです。アジアショップは拡大して、発展していましたが、キリスト教は衰退しているのです。それでも、ツィーハンク書店という大学書店が神学書を扱ってくれています。注文するとほとんど翌日には手に入ります。
今回最初に訪れたロイトリンゲンにもオジアンダー書店という大きな本屋があり、そこを訪れてびっくりしました。かつて充実していたキリスト教コーナーが縮小し、置いてある本もキリスト教に関する読みやすそうな本しかありません。そのかわり、今はやりのスピリチュアルコーナーが拡大して、しかもきれいな飾り付けもされていました。
パワーストーン、風水、ヨガ、メディテーション、陰陽、神秘思想、仏教の本と共に、ロウソク、アロマオイルなどが売られていました。おそらくキリスト教コーナーの5倍ぐらいあると思います。

キリスト教は段々と片隅に追いやられているようです。日本でも、スピリチュアリティーという言葉がはやりですが、ドイツでも至る所で使われています。ドイツでは、社会の中で宗教やキリスト教という言葉に拒絶反応がある中で、人々が取っつきやすくするための入り口としてスピリチュアリティーという言葉が使われているような感じがします。
キリスト教の話は聞きたくないけれど、スピリチュアリティーの話なら聞きたいというような風潮があり、キリスト教もその時代の波に乗っかってるのではないでしょうか。


本屋で驚いたことの一つに、マンガコーナーの充実があります。噂では聞いていましたが、これほどにマンガがドイツ語に訳されているとは思いませんでした。
小さなことですが、気がつきましたでしょうか。マンガは右綴じで、右から左へと読んでいきます。日本語の縦書きの本がそうです。ところが、ドイツ語の本は左綴じです。この逆から読むことがなかなかドイツ人には難しいそうです。まあ、若者たちの順応能力は優れているので、やすやすと違う文化を理解しているみたいですけど。それで、ちょっと大人向けのマンガは左綴じになっているんですよ。
日本のドイツ語の授業も、ドイツ語のマンガを教科書に使った方がいいかもしれませんね。ただ吹き出しの台詞が"KAME KAME HA-!"とか"WAAAAAA------!"ばっかりかも。

テレビでは「ワンピース」もやっています。何とルフィーがペラペラとドイツ語をしゃべっているじゃないですか。くやしーっ!(>_<)

2010年4月12日月曜日

ドイツの教会・礼拝

昨日は、近所にあるルター教会に行ってきました。自転車で5分ほどのところです。なんと、その道の途中、10年前学生寮で一緒に生活してた友人に出会いました。彼も自転車で反対車線を走っていました。二人ともすぐに気づき、驚き、「ここでなにしているの?」「エー、すごいじゃん」とお互いの状況を聞きあいました。彼は大学病院の婦人科の医者として働いているそうです。ドイツ人の彼と、イタリア人の哲学の学生と日本人のわたしとがいつも寮でそれぞれの得意料理をつくり、ワインを飲みながら料理を楽しみ、おしゃべりをしていました(日独伊同盟ではありませんが)。
さて、彼と連絡先を交換してから、教会へ。わりと新しい教会です。

この教会は10時から礼拝が始まります。9時50分頃に教会に着きました。一度全礼拝をビデオに撮りたいのですが、ドイツでは礼拝中に写真を撮ったり、ビデオを撮ったりすることは避けられています。牧師と仲良くなってから、一度"学術的な目的で"お願いしたいと思っています。
さて、見知らぬアジア人が礼拝堂に入ってきても、誰も声も掛けません。牧師も知らんかおです。こちらから挨拶すべきでしょうが、牧師も他の人と話していたので、ちょっと遠慮しました。礼拝後にコーヒーアワーがあるとインターネットで読んでいたので、その時にでも挨拶しようと思いました。
ドイツの礼拝様子を簡単紹介します。ドイツといっても、バーデン州教会のこの教会での礼拝であって、他の州教会に行けば若干違っています。
                 
今日の礼拝は、Quasimodogenitiと言う名前がついています。イースター後最初の主日礼拝で、1ペトロ2:2の「生まれたばかりの」という言葉からつけられた名前です。伝統的に洗礼式(幼児)が行われます。残念ながら、今日は洗礼者はいませんでした。
洗礼盤の後ろの網に洗礼を受けた子供たちの写真があるのに気がつきましたか。
10分前 教会の鐘が鳴る
前奏
賛美歌  アナウンスなし、座ったまま、会衆は壁に書かれた番号とオルガンの前奏で分かる。
牧師の挨拶 礼拝の趣旨の説明、牧師が風邪気味で声がうまく出ないことのお詫び
交唱  (会衆は立つ)
司:父と子と聖霊のみ名によって
会:アーメン
司:主があなたがと共にあるように
会:あなたの魂と共に
詩編交読
頌栄
キリエ交唱
恵みの告知
祈り
(会衆はここで座る)
聖書
ハレルヤ
賛美歌
福音書 (会衆は立つ)
信仰告白
賛美歌 (会衆は座り、ここで献金が集められる)
説教
賛美歌
報告 1週間の集会、出口での献金の呼びかけ、牧師が風邪気味のため出口で握手をしない、今日はコーヒーアワーがないことなど。
賛美歌
とりなしの祈り (会衆は立つ)
主の祈り  (教会の鐘が鳴る)
派遣と祝福
アーメン 
後奏  (会衆は座る)
礼拝堂を出て牧師に挨拶をして家に帰る。


 日曜日の午後、集会はありません。日曜日は礼拝と休息の日。思い出してください、ドイツ人にとって「休みは休み」です。これは、この逆も言えるのです。「働くとき働く。学ぶときは学ぶ」。6時には職場にいる人もいますし、学生は8時から図書館に座っています。


さて、500名ぐらい座れそうな礼拝堂、荘厳なパイプオルガンの響き、さて何人ぐらい礼拝に出席していたと思いますか。
正確に数えたわけではありませんが、40-50名でした。ほとんどが年配の女性、堅信礼準備クラスの生徒が2名、閑散とした礼拝でした。この教会も何とか活性化を狙って、コーヒーアワーを催したり、こどもの教会や中高生会を充実させようとしています。ドイツの教会がどのように活性化を図ろうとしているかが今年のわたしの研究テーマの一つでもあるので、またいろいろと調査したいと思っています。